三日月と獅子、そして太陽

主に、訪問した展覧会について、感想を書くブログです。

キンシかテツガクか

ネットで見掛け「なんじゃこれは」と思い訪問しました。『キンシクウカン』いまにぴったりくるタイトルです。しかし実は20年前から、続けているテーマだとか。観るというより、体感する作品でした。

 

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窪田順展
『キンシクウカン』
2021.9.11(土)-9.26(日)
※土・日・月・火開廊
12:00-19:00
city gallery 2320

 

ギャラリーを構成する全ての部屋、建物の外部、さらに太陽をも取り込むことを試みた、巨大なインスタレーション。ギャラリーは大きく3つに構成しなおされ、各々が卵と天上をつなぐ糸によって繋がれています。あらゆる場所が、赤と白のメッセージで埋め尽くされていました。

 

『禁止の記号で埋め尽くされた部屋』
『天空と地上をつなぐ、白い雲の部屋』
『地上に降り立った、太陽の部屋』

 

全ての空間でエネルギーが溢れているにも関わらず、感じる静寂。エネルギーが拮抗した状態、という方が正しいかもしれません。真っ赤な太陽を目の前にしても、禁止マークに包囲されても、静を感じる不思議な感覚。唯一、白い部屋でガラスの中を泳ぐ金魚のみが、動の存在を強く感じさせます。

 

一度2階を見てから、もう一度1階に戻ると、禁止マークに包囲された部屋の印象が、全く違って見えます。最初に入った時は、禁止マークは行動を制限し、統制する象徴に見えました。が、天上から戻り、もう一度よく見てみると、空から侵入してきた卵に怖気づき、震えおののいているかのように見えます。卵の中の鈴が空間に鳴り響くと、なおさらそんな印象が強くなりました。そして、力尽きた禁止マークは1枚、また1枚と剥がれ落ち、地面の上に堆積していくかの様でした。

 

【キンシではなくテツガク】

技術の進歩により、人の様々な自由度や可能性が高まっているのに、人の行動を規制させる記号である「キンシ」は増える一方。 『キンシクウカン』は、いまにピッタリの表現だと思いましたが、最初にも書いた通り、20年も前から続けているテーマだそうです。ということは、禁止マークが詰まった空間、あそこは20年かけて降り積もった、キンシの堆積した場所に思えました。

 

キンシを奨励する人々は、キンシすることで世の中が良くなる…と信じているのだと思います。もちろんそういう側面は否定しません。しかし一方で、不自然なキンシの集積は、小狡くて醜いものを産み出す可能性があると、常々考えています。

 

日々技術は進歩しているのです。その技術は、大きな一歩を産むだけではないのです。抜け道や、今まで通れなかった道をすり抜ける方法の発見にも使われるのです。だからどんなにキンシを重ねても、いずれはキンシの綻びを見つけ出し、すり抜けていくのです。結果的に、キンシの壁に囲まれた人々は、壊れた天突きで押し出された心太(ところてん)の様に、あちこちの綻びから漏れ出し、無残な姿を晒してしまうのです。

 

例えば、モータースポーツの頂点のひとつであるF1。様々なテクノロジーを活用し、スピードを追求する競技で、競技車両が主役の一翼を担っていることは間違いない。しかし、競技車両に対する、不自然な「キンシ」を重ねに重ねた結果、かつては「MoMA」にも収蔵されるほど美しかったF1も、現在は、見る影もなくなりました。

 

www.moma.org

 

本田技研工業の創業者、故本田宗一郎氏は、「哲学なき技術は凶器」と語っていたとか。核兵器などは、その最たるものだと思うけれど、だとすれば、世の中を良くするのに、本当に必要なのは、「キンシ」の強化で愚行を止めることではなく、「テツガク」なのかもしれないな…と。

 

天上界からつながる、キンシクウカンにぶら下がった自由という名の卵達。さらに数が増え、膨張していったとき、隙間から漏れ出す、小狡いやり方で逃れるのではなく、キンシで塗り固められた壁を打ち破る、強い力であって欲しいと思うのです。

 

 

www.citygallery2320.com

身体と写真と空間

降車する駅をまちがえ、かなりの距離をとぼとぼ歩き、国立国際美術館まで…個人的には「IN MY ROOM」に焦点を当てた展示が見たかったのですが、今回は活動初期から現在までも網羅した、大規模個展とのこと。写真というものを作品として昇華させる難しさ、それを強く感じる展示でした。

 

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鷹野隆大展「毎日写真1999-2021」
開催期間:2021年6月29日(火)~9月23日(木・祝)
※月曜日休館日
開場時間:10:00~17:00  
会  場:大阪国立国際美術館

 

写真を撮るという表現は、他の手法よりも簡単に色々と試みることが出来るだけに(もちろん、追求すれば奥深いですが)、逆に「個」というものを確立させることが、非常に難しいと感じています。

 

写真が持つ豊富すぎる情報量、撮影された時代背景や文化的背景、テクニカルな要素、写真を使って空間を構成する方法などなど…感性だけではなく、理論的な部分も大切なのかとか、色々考えさせられる展示でした。

 

今回の展示は、鑑賞する側の身体と、写真が作る空間との関係作りに焦点を当てられているのかな…と。平面の写真を平面に展示するのではなく、3次元的(時間軸も考えれば4次元的?)に再構築しているというか。

 

 

www.nmao.go.jp

描画と身体の関係性

ギャラリー島田で、朝を描く日本画家と出会った。

 

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東端哉子展
「よあけ」
2021.9.18(土)-9.29(水)
11:00-18:00  ※最終日は16:00まで
ギャラリー島田 1F deux

 

森に入って、夜明けを迎える。空気の変化を感じながら、その日の朝の風景をおさめる。生活環境の関係で、今はそんスタイルで作品を制作している東端さん。ざらっとした質感で、流れる様な朝を表現している2枚の絵に、心惹かれました。

 

最初は嵐の日か、あるいは川の中を描いているのかな?と思いましたが、風の強い日の朝と聞いて納得。様々な朝の表情が描かれており、その日その時間にしか訪れない、それぞれの朝が絵の中に収められていました。

 

個人的に日本画というと、静の絵という印象を持っていました。そんな中で、動を感じる2枚の絵は、非常に興味深く。

 

作者の東端さんと、お話する中で、「ダンスを体験した時、先生に『身体の中の光の珠を感じて、光の珠が指先から出ていくイメージで動いてみてください』と言われ、そのイメージで動いてみたら、身体を上手く大きく使って表現する事が出来て。絵画も同じで、手の先だけじゃなく、身体を使って描くものなんだと感じました」というお話が出て、これが動きを感じる絵に繋がっているのかな、と。

 

これからも、素敵な夜明けに、出会えます様に。

 

gallery-shimada.com

Vibrant

坪田昌之さんの展示、風と波の跡を刻み、記憶するかのようなキューブ。なぜか懐かしい感覚を覚えた作品と出会いました。

 

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坪田昌之展
「Vibrant field」
2021.9.1(水)-9.14(火)
11:00-18:00  ※最終日は16:00まで
ギャラリー島田 B1F un

 

空間に並ぶキューブ。
それは、波に運ばれた砂に洗われ、波食されたのか。
あるいは、風に運ばれた土に削られ、風食されたのか。


キューブが並び、作り出している空間に、何故か懐かしさを覚えました。私の出身地は、非常に微妙な田舎で、懐かしさを覚えたのは、そのとき、そこで感じた波や風の生み出す佇まい思い起こさせたから?いや、なんだか違うな。

 

じっくり見ていると、思い出したのが1冊の本。当時、徐々に世に出ていた、擬似的に3D空間をPC上で再現するプログラムの本でした。当時、徐々に疑似3D空間を再現するゲームが出てきた頃。当時はワイヤーフレームと呼ばれるものが主流で、めちゃくちゃ粗いポリゴンが少しずつ出ていた頃でした。


タイトルの「Vibrant」は、さまざまな意味を内包している言葉です。震える、震動する、響き渡る、鮮やかな、きらめく、活気に満ちた、すぐに反応する、敏感な、ぞくぞくするような、スリリングな…並べてみると実に面白い!


もしかすると、当時は萌芽したばかりで、挑戦的な分野であった3Dグラフィックから感じとっていた、ぞくぞくする活気に満ちた空気と同じものを「Vibrant field」から感じたのかもしれません。


実際には、なぜ「懐かしさ」を覚えたのか、まだ自分の中では消化しきれていないのですが…また坪田さんの作品と出会うことが出来たら、もう一度対話してみようと思います。

 

gallery-shimada.com

赤について反芻する帰り道

 「朱色?茜色?紅色?…いや、これは真朱なのかな?」

 

一応印刷業の端くれである私は、錆びつきかけた色の知識を紐解きつつ、そんな事を考えながら、この日の帰路についたのだった。

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元永紅子展
「いろかげ」
2021.9.1(水)-9.15(水) ※9.22(水)まで延長
11:00-18:00 ※最終日は16:00まで
ギャラリー島田 1F deux & trois

http://gallery-shimada.com/

 

まるで、芋虫がかじり取った後の葉のような、あるいは無造作に破り取った紙片の様な形状。その赤い物体に近づく。

 

「赤に飲み込まれる!」

「赤の世界に引きずり込まれる!」

 

そう思った。それくらい強い赤だった。作品に顔を近づけてみると、その赤は、絵の具を糸の様に何度も何度も重ねて描かれていることが分かる。そうやって、取り込まれたその場所は、とても温かい場所に感じた。

 

その温かみの正体が分からなかったのですが、作者の元永紅子さんが、今回の個展にあたって書き起こされた一文を読んで納得。なるほど、気が遠くなるほど無限に重ねられた絵の具の糸は 、繭を形作る糸の様に紡ぎ出された線なんですね。

 

この赤い作品をずっと見ていると、朱色だったり、茜色だったり、紅色だったり、色々な赤が浮かび上がって来ました。もちろん、使っている赤の絵の具は、「○○色」のように、はっきりしていると思います。が、細い糸のようにして、絵の具を重ね合わせることで生まれる陰影と色のが、赤に様々な赤を内包させたのではないか…と感じるのです。

 

 

gallery-shimada.com

 

記録という行為を突き詰めて

自在空間ArtStepで頂いたDMの写真に惹かれ、永田收さんの写真展を訪問してみました。

 

 

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永田收 写真展
「時と旅と」
2021.9.9(木)-9.24(火)
12:00-18:00 ※最終日17:00まで
自在空間ArtStep

https://artstepikuta.stars.ne.jp/index.html

 

街とそこに暮らす普通の人々の記録写真。で、あるにも関わらず、そこに写っている人々の一人一人が、その場所が、とても強く印象に残る、不思議な感覚の写真です。

 

写真の役割は3つ。それは、記録、芸術、商業、の3つだと思います。永田さんの今回の作品は、もちろん「記録」が強く刻まれています。その時間、その場所に自分が居たはずは無いのに、永田さんの目を通した「記録」に、何故か懐かしいという感覚を覚えるのです(特にモトコー入り口の写真など)。たまたま写真を鑑賞されていた年配の女性も、「この場所に、この時に居たはずがないのに、立ち会っていた家族の話を聞いていると、まるで自分もその場所に居た様に思えてくる」と仰られていたのが印象的でした。

 

一見、スナップ・ショットの様に見えますが、恐らく全く違う方向性の写真ではないかと。スナップ・ショットは、スポーツ感覚で、格好良さや面白さを切り取っていくわけですが、永田さんは、被写体にきちんとカメラを向けて、関係を築いて撮っている感じがするのです。

 

どんなに優れた写真家も、街の全てを収めることは出来ません。人と風景をどの様に記録すれば、失われ、変わっていく街を記録できるのか。見る人の記憶を鮮やかに呼び覚ませる記録を残せるのか。むやみやたらと切り取るのではなく、奇をてらうでもなく、「記録」というものを、とことんまで追求している、それが永田のでは無いかと感じました。

 

初めての出会いでしたが、写真を一点一点説明して下さる、優しさを湛えた目が、非常に印象に残っています。「身体は死んでる様なもの」と笑いながら仰られていましたが、帰り際に「お互いに頑張って(写真を撮って)いきましょう」と言いながら私を見る目には、鋭い眼光が宿っていて、少したじろぐと同時に、強く励まされた気がしたのです。

 

最後に…永田收さんの、写真に対する姿勢や思いが詰まったインタビューにあった、「いい写真って、評価とは関係なく、撮りたい人しか撮り続けられない」という言葉は、胸に深く突き刺さりました。最近の自分を省みて、強く反省…全文はこちらでどうぞ。

 

rai-box.raims.info

 

三日月と獅子、あるいは太陽

 

『三日月と獅子、或いは太陽』 これは中学生の頃から、ずっと取り憑かれている言葉。「或いは」なんて、普段漢字にしないのに、敢えて漢字になっているのが実に厨二病臭く、逆に気に入っていた。『かわいいアフリカ やさしいアフリカ』 を訪問した帰り道、そんな事を思い出したのでした。

 

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「かわいいアフリカ やさしいアフリカ」

2021.9.15(木)-9.20(月)
10:00-20:00 ※最終日18:00まで
阪急うめだ本店 9階 アートステージ

 

とてもユニークな表現者、中尾さんの投稿で発見した、『かわいいアフリカ やさしいアフリカ』。アートの展示ではなく、いわゆる雑貨販売のイベントなので、「何か出会いがあるだろうか?」と思ったのも事実。しかし、あの中尾さんが楽しそうに写真を撮っているし、関東でバンドをやっている友人の知人(遠いな)が、近くで個展をやっていることもあったので、思い切って訪問してみました。

 

話は変わりますが、私は初対面の人、特にその人がお洒落だと、話す時にとても緊張する人間なのです。そんなとき、目の前にある「モノ」にのめり込むまで、とても時間がかかるのです。そういう場合、声を掛けられないよう(笑)、足早に会場をグルグル回り、気を落ち着かせます。その様子は、多分とても挙動不審。不審人物とはこういう人だ、そんな見本に十分なり得るという、変な自負があります。

 

会場を2〜3周ほどするうち、心が落ち着きを取り戻し、鎮まったところで、やっと作品との対話を始めることができました。あれやこれやと考え、いろいろと見てまわるうち、中央に設置されているブースで、強く惹かれる染め物と出会ったのです。

 

初めは2羽の鳥を染め上げた布地。次に太陽と眩しい黄色を背景に向き合う恋人。そして、様々な精霊と対話し、祈りを捧げる場面を描いたもの。驚くべき密度の、色の渦で染め上げられな布地。圧倒的なエネルギーの「圧」を感じました。そこがたまたま、西沢さん(別名:新聞女さん)の会社が出展しているブースだった、というのも面白いなぁ…と。

 

気になった作品の作者は、ブルキナファソ在住のテオドール・ゾマさん。“力”を感じる、ろうけつ染めでそんな言葉がぴったりの作品を産み出す人です。西沢さんによると、彼は精霊のマスクを作る一族の出身だとか。仏師とか能面師の様なイメージでしょうか?

 

であれば、表面的なカタチを作るだけでなく、カタチに魂を埋め込むことが、生まれながらの、彼の宿命だったのかもしれません。布を染め上げるときも、無意識にそうやっているんでしょうか?それが、作品から溢れるエネルギーの源なのかもしれません。

 

でも、いま振り返ってみると、ゾマさんの作品に強くひかれた理由が、もう一つありました、それは、作品にしばしば登場する、多くの「象」の存在。5月に亡くなった友人のバンド、『YORIE』がマークに使っていた動物、それが象だったので、無意識に引き寄せられたのかも。ひょっとすると、彼がゾマさんに引き合わせてくれたのかな?

 

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そんなこともあって、最初は象か、あるいは中高生のときに似ていると言われたキリンを欲しいな、と思ったんですよね。でも眺めているうちに、何故かライオンが染められた作品に惹かれまして。どういうわけか、これだけ他と違って見えたんですよ。裏面から見ると、太陽そのものに見えるところも気に入っています。

 

そしてその日の帰り道、阪神電車に揺られながら、ふと冒頭の言葉を思い出したのでした。

 

優しくて、でも不思議な表情をした獅子を、カバンに詰め込んで。